|
スポーツは目に見えない!?
近代スポーツは元々19世紀に英国の上流社会で誕生した概念であった。産業革命が進むにつれ都市化が進行し、労働と余暇が分離されるようになる。労働者達にとってもスポーツは、日常の余暇を過ごすソフトとして急速に人気を得て広まっていった。さらにスポーツはするだけではなく、「観る」ものとしても人気を集めるようになっていった。「スポーツは工業化社会の副産物であった。」(ピーター・マッキントッシュ/『フェアプレイ』ベースボール・マガジン社刊)
20世紀初頭にはすでにサッカーの選手権(FAカップ)は、入場料収入でかなりの収益をあげるようになっていた。そのおかげで、それまで上流階級においてむしろ「下品」だと考えられていた「勝敗への執着」が一般的に認められるようになり、スポーツにおける勝負の意味が重要性を増していった。それがますます観衆の興奮を誘うようになり、見る「エンタテイメント価値」が増すようになった。もっともその余波として「フェアプレー」をルールで明文化する必要が生じたのもこの頃である。金銭絡みの勝敗への執着は、その後のプロフェッショナルの誕生とアマチュアリズムの衰退につながるのである。また、新聞の発達とラジオの出現はエンタテイメントすべてのメディアバリュー(Media Value=媒体価値)を拡大した。
スポーツイベントの経済的な価値とは、基本的には興行(エンタテイメント)という側面に依拠している。本論のテーマはスポーツマーケティングで扱う「スポーツイベント」であり、単なる興行師(プロモーター)の領域とは異なる。決定的な違いは、メディアとの関与度による。スポーツイベントのメディア的な価値(=メディアバリュー)が、スポーツマーケティングで扱う商品の内実なのである。
価値の中心にあるのは競技ではあるが、ビジネスの如何は競技そのものの質よりもテクノロジーの進化によるメディアの普及と多様化によるところが大きい。後述するが、スポーツイベントは、逆にメディアやテクノロジーそのものの開発を促す機能も併せ持つ。
本来スポーツとはモノではなくコトつまりソフトである。物体(モノ)は触ったり、数えたり、絵に描いたりすることができる。スポーツをするプレーヤーを描いたり数えたりすることができるが、スポーツというコト自体は描いたり写真にとったりできない。あくまでスポーツとは、「スポーツと規定された概念」のことなのである(1978年のワールドカップ(以下W杯)でアルゼンチンを初優勝に導いたメノッティ監督の「サッカーというモノはない。サッカーをプレーする人間がいるだけだ。」という言葉は確かに名言である)。
モノであれば生産する上での原価計算はでき、原価が価格の根拠になる。しかしソフトの価格とは、市場(マーケット)における「需要と供給」に完全に依拠する。したがって、ソフトの商品化や開発等のマーケティングの課題は、需要の創出・喚起が中心となる。スポーツの需要を喚起するということは、「スポーツという概念」の理解を促進し、おもしろさを訴求し、人気を得るという啓蒙普及的な側面が最も重要な意味を持つ。したがって、「人気」はスポーツマーケティングの商品価値の立派なバロメーターなのである。この点からも、スポーツマーケティングではスポーツを基本的に「見る」エンタテイメントとして捉え、メディアとの関係が最重要な課題となる。
続きは創刊号をご覧ください。
|